【3.11に寄せて】がんと震災 ― 2つの日常の喪失から学んだ『こころの防災』 ―
- 和田仁
- 23 分前
- 読了時間: 4分
3月11日。
東日本大震災から、15年が過ぎました。
震災は、多くの命と日常を奪いました。
いまだ2,000名を超える方々の行方が分からず、福島第一原発の影響も続いています。この震災が、いまも現在進行形の災害であることを、私たちは忘れてはいけません。
改めて、犠牲になられた方々に心よりお悔やみを申し上げます。そして、いまも心身の痛みを抱えておられるすべての方々へ、お見舞いを申し上げます。
そして同時に、私の医師人生も大きく変える出来事となりました。
今回は、キャンサーコンパスクリニックのラジオ放送『希望の和だチャンネル』でお話しした内容を、改めて言葉にまとめました。
震災の現場とがん診療を通して私が学んだ『こころの防災』という考え方について書いてみたいと思います。放送を聴いてくださった方も、そうでない方も、少しだけ耳を(目を)傾けていただければ幸いです。
震災の日、私は山形に
あの日、あの時、私は山形大学の医局にいました。
テレビ画面からリアルタイムに流れてくる津波の映像を見ながら、仙台にいる家族や知人、たくさんの方々の無事を祈ることしかできませんでした。
幸い家族は沿岸部から離れた場所にいて無事でしたが、数日後にようやく自宅へ戻ることができた仙台は、ガスも水道も止まったまま。生活は一変していました。
貴重なガソリンを使いながら、山形の日帰り温泉まで家族を連れて行ったこともあります。
震災が変えた、私の医師人生
実は2011年4月、私は山形大学を退職し、在宅医療の世界へ飛び込む予定でした。しかし、震災がすべてを変えました。

混乱の中、放射線治療の現場を守るため、なかば強引に宮城県立がんセンターへ導かれることになったのです。
そこで出会ったのは、仙台市沿岸部の閖上地区や、福島の浜通りから避難してこられたたくさんの患者さんや医療スタッフの方々でした。
さらに私は、以前から氣になっていた宮城県立がんセンターの充実した緩和ケア専用病棟と、在宅医療で有名な岡部医院さんが近隣にある場所で、改めて緩和ケアの大切さを学ぶことになります。
あの4年間がなければ、
その後の陽子線治療センターでの経験も、
いまのキャンサーコンパスクリニックの開業スタイルも、
きっと生まれていなかったでしょう。
東日本大震災は、私の医師としての人生においても、大きな転機となりました。
忘れられない人たち
震災のあと、私の周りでも忘れられない出来事がありました。
往診中に津波に飲まれてしまった看護師さんのお話。
あの日に恋人と会う約束をキャンセルしたら、永遠のお別れになってしまった方のお話。
一方で、紙一重のところで命をつなぎ、今もその経験を語ってくださる方々もいます。
医師として、そしてひとりの人間として、こうした命のやり取りを目の当たりにした経験は、私の心に深く刻まれています。
私が伝えたい『こころの防災』
いま私は『こころの防災』という活動にも力を入れています。防災というと、水や食料、薬など、からだの備えがまず思い浮かぶかもしれません。
しかし、災害や病気は、私たちの日常を突然奪います。
がんという病も、災害も、本質的には似ています。
そんな非日常の中で、自分らしい習慣をどこまで保てるか。
誰かとの絆を、こころの杖として持ち続けられるか。
がんと震災、2つの喪失を経てたどり着いた『こころの防災』。
それは、絶望さえも未来への『希望の轍(わだち)』へと変えていくための、静かな、しかし確かな備えです。この『轍(わだち)』という言葉には、キャンサーコンパスクリニックのラジオ番組名『希望の和だチャンネル』にも込められた思いが重なっています。
がん診療と震災の現場が私に教えてくれた、いのちを繋ぎ止めるための、大切な大切な備えです。
今日書いたことが、あなたの心のどこかに、
小さな灯し火のように残ってくれたなら、
医師として、そしてひとりの人間として、とてもうれしく思います。
記憶を風化させないことも、防災
今年6月には多賀城で、そして8月には母校である静岡県立沼津東高校の同窓会総会で、当番世話人学年の名誉ある代表講師として、『こころの防災』についてお話しする機会をいただいています。
震災の経験を語り継ぐこと。
記憶を風化させないこと。
それもまた、大切な防災の一つだと思っています。
がんも震災も、突然、私たちの日常を奪います。
それでも人は、誰かとの絆を支えに、
もう一度歩き出す力を持っているのだと、私は信じています。




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