「昔よりマシ」という言葉の罠
- 和田仁
- 2 日前
- 読了時間: 6分
先日、がんサバイバーである先輩医師のSNS投稿が目に留まりました。
「6年前にCAPOX療法を6ヶ月受け、5年経っても足がビリビリな私にとっては非常に感慨深いSCOT試験の結果。同じような治療を今も私は患者にやっている。」

SCOT試験が示した「光」
SCOT試験とは、大腸がんの術後補助化学療法に関する国際的な大規模臨床試験です。6,000人以上の患者さんが参加し、導き出された結論は、世界中の治療方針を塗り替えました。
「治療期間を6ヶ月から3ヶ月に短縮しても、生存率は変わらない。その代わり、手足のしびれ(末梢神経障害)などの重篤な副作用は大幅に減少する。」
医学界にとっては画期的なニュース。治療期間を半分にしても効果は変わらず、しかも副作用は減る。まさにこれから治療を受ける患者さんにとっての朗報です。
医学論文では「グレード」という尺度で副作用を分類します。
・グレード0: 無症状
・グレード1: 軽度
・グレード2以上: 中等度以上の症状
実際、日常生活に支障が出るような「グレード2以上」が出る頻度は、以下のように劇的に変わります。
・3ヶ月治療:25%
・6ヶ月治療:58%
数字で見れば、明らかな改善です。
数字の裏にあるもの
しかし、詳細なデータに目を向けると、私たちが心に留めておくべきもう一つの側面が見えてきます。
期間を短くすることで重い副作用は劇的に減りますが、一方で「完全に無症状(グレード0)」となる方は、どちらの期間でも1割程度にとどまっています。多くの方に何らかの違和感が残るという現実があります。
たとえ治療期間が半分になっても、残ってしまう違和感はある。 私たちはその事実に目を背けず、たとえ数字上は「軽い(グレード1)」とされる症状であっても、患者さんの日常に寄り添い続ける姿勢を忘れてはいけないのだと思います。
「昔よりマシ」という言葉の罠
私自身、かつて頸部の放射線治療を受けた患者さんの診察時に、こんな説明をしたことがありました。
「最新のIMRT(強度変調放射線治療)になって、唾液腺の障害はずっと軽くなりました。昔に比べたら、これでもずいぶん改善した方なんですよ。」
医学的には正しい説明です。でも、これは本当に患者さんに寄り添った言葉だったのでしょうか。
目の前の患者さんにとって、統計上の比較でどれだけ軽いと判定されても、その方にとって今まさに感じている「唾液が出ない」「足がビリビリする」という事実は、これまでの人生で一番辛い経験かもしれません。
たとえ善意から発せられた言葉であっても、「昔よりマシ」「他の人よりマシ」という言葉は、今まさに苦しんでいる患者さんの孤独を、さらに深めてしまうことがあります。
自省すべき私の説明でした。
統計の「軽度」と、患者さんの「一生」
医学的には「グレード1(軽度)」と分類される症状。しかし、もしその違和感が5年、10年と続くとしたら、それは決して「軽い」と言い切れるものではありません。
・日常生活で、ボタンがうまく留められない。
・寒い日に手足の感覚が鈍くなって不安になる。
・夜、布団の中で足のしびれが気になって眠れない。
統計上の「軽い症状」という言葉が、患者さんの「一生続くかもしれない違和感」をかき消してしまっていないでしょうか。
私たち医療者は、数字の差に喜ぶだけでなく、その裏にある一人ひとりの「生活のしにくさ」を想像し続けなければならないのだと思います。
比較ではなく共有
では、どう伝えればいいのか。
冒頭にご紹介した先生のように、もし医師自身が同じ治療を経験していて、
「私も同じ治療をして、今も足が痺れているんです。だから、あなたのその辛さ、本当によく分かります。」
こう言われたら、患者さんの受け止め方は変わるかもしれません。
実際、患者会やピアサポートが多くの方にとって支えになっているのは、まさにこの共有があるからです。同じ治療を受けた人同士だからこそ、比較ではなく共感の言葉が自然に生まれるのだろうと思います。
すべての医師が患者さんと同じ病気になるわけではありません。でも、私たちにできることは
1.「昔の誰か」と比べるのではなく、「今のあなた」の隣にいること
2.データの裏側にある「個々の患者さん」を想像し続けること
ではないでしょうか。
医学の進歩と、向き合うべきもの
医学の進歩は、過去の患者さんたちの貴い献身の上に積み上がっています。
SCOT試験の結果を見て、「短くなって良かった」と喜ぶと同時に、今も痺れなど治療の副作用と戦っている方たちの心に、私たちはどんな言葉を届けるべきか。
「昔よりマシ」ではなく、「今のその辛さを、どう一緒に抱えていこうか」。
そんな対話ができる医療でありたいと、改めて思いました。
皆さんは、誰かに「私の方がもっと辛かった」と言われて、寂しくなった経験はありませんか?
医療の世界だけでなく、日常生活のあらゆる場面で、私たちは無意識のうちに「比較」の言葉を使ってしまいます。でも、痛みや辛さは、決して比較できるものではありません。
一人ひとりの「今」に寄り添うこと。それが、医療者だけでなく、すべての人に求められる姿勢なのかもしれません。
コラム:データは公開されていた。でも、誰も注目しなかった。
実は、「グレード0(完全に無症状)がわずか9%」というデータは、2018年の論文発表時からしっかり記載されていました。決して隠されていたわけではありません。
では、なぜこれまで、医療者の間でこの事実が積極的に語られてこなかったのでしょうか。
それは、「グレード2以上の重症例が58%から25%に半減!」という劇的な改善のニュースがあまりにも強烈だったからです。学会発表でも、論文の要旨でも、プレスリリースでも、この「成功」が大きく取り上げられました。
医療者も患者さんも、「重症例が減る」というポジティブなメッセージに目を奪われ、「ほとんどの患者さんに何らかの症状は残る」という地味な事実には、意識的・無意識的に目を向けなかったようなのです。
これは「出版バイアス(Publication bias)」とは違います。データは全て公開されています。でも、何を強調し、何を語らないかという選択によって、私たちが受け取る印象は大きく変わります。
医学論文は「嘘」をついていません。でも、「真実の全て」を等しく伝えているわけでもないのです。
参考文献
1) Iveson TJ, Kerr RS, Saunders MP, et al. 3 versus 6 months of adjuvant oxaliplatin-fluoropyrimidine combination therapy for colorectal cancer (SCOT): an international, randomised, phase 3, non-inferiority trial. Lancet Oncol. 2018 Apr;19(4):562-578.
2) Shi Q, Sobrero AF, Shields AF, et al. Effect of duration of adjuvant chemotherapy for patients with stage III colon cancer (IDEA collaboration): final results from a prospective, pooled analysis of six randomised, phase 3 trials. Lancet Oncol. 2020 Dec;21(12):1620-1629.
3) Domingo E, Kelly C, Hay J, et al. Prognostic and Predictive Value of Immunoscore in Stage III Colorectal Cancer: Pooled Analysis of Cases From the SCOT and IDEA-HORG Studies. J Clin Oncol. 2024 Jun 20;42(18):2207-2218.




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