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和田仁

靴下一足の思い出、「異邦人」の間奏後


 今日はわたしが大学生、東北大医学部時代の思い出話を少しさせてください。前回、研修医なりたてで主治医の飯沢マサさんのお話で、私が大学時代にしっかり勉強していなかったことをお伝えした、部活や飲み会に明け暮れた時の記憶あれこれです。

 

 私は高校時代、本音では入りたかった運動部には入らず、ギターアンサンブル部で何となく終わってしまいました。浪人して、そんな高校時代をとても後悔したので、医学部に入ったら絶対に運動部、特にサッカー部に入ろうと決めていました。

 

 入部後ほどなくして、背丈は169.5cmでしたが、ゴールキーパーをしてみないかと勧められました。板橋さんという当時の最上級生に高校県代表ゴールキーパーだった先輩がいらして、連日とても厳しいご指導をいただきました。なにしろ、私が入学した時の東北大医学部サッカー部って、一番の目標である東日本医科学生総合体育大会、略して東医体の三連覇がかかった年でしたから。

 ちなみに、Wikipediaによると、東医体には、東日本の大学の医学部から約15,000名の医学生が集まり、日本国内で行われる体育大会としては、国民体育大会(いわゆる国体)と西医体に次ぐ第3位の規模になっているそうです。


 現役時代は6年間ゴールキーパーを続けさせていただきましたが、板橋さんのご指導はずっと私の心の中に強いインパクトを残しています。自他ともに厳しい方で、40才台と若くして胃がんに罹患してしまったのですが、闘病でも敬意を表するお姿でした。感謝と共に改めてご冥福をお祈りいたします。


 故板橋先生の闘病記録、実は書籍になっています。2009年6月にへるす出版新書さんから出版された「出来れば晴れた日に、自らのがんと闘った医師とそれを支えた主治医たちの思い」という本です。今もAmazonや楽天ブックスなどで購入することができます。場合によっては中古本でも仕方ないいので、ぜひ手に取ってお読みいただければうれしいです。


 三連覇後の私たちの東医体は歯がゆい結果ばかりでした。大会で唯一2敗を喫するチームである4位に2度もなり、準決勝の相手はいずれも優勝。また4年生時に1回戦PK負けした山形大は準優勝だったと思います。

 5年生の首脳部時代の準決勝北大戦は特に辛い思い出で、私はいまだにビデオを見ることができません。後半2-0でリードしながら私のミスなどで後半終了直前に同点とされ、その尾を引いたままPK戦へ。結局、私は一人も相手のペナルティーキックを止めることができずにPK負けでした。その試合の録画テープはいまだに見られないのですが、しばらくは夜中に何度も夢でうなされるくらい残像が記憶されています。


 大学時代、サッカー以外はよく飲みよく寝ました。最初のお花見では当然つぶれ、記憶なく一つ上の先輩のアパートに連れられゲロまみれで翌朝目覚めました。4年生の時は逆に我が家に今は亡き2つ下の学年の後輩を運び、台所に巻き散らかれたゲロを処理したこともありました。小玉、シャイないいやつでした。彼も若くして希少がんで他界しました。あっという間でした。あんないいやつが、本当に残念でした。


 医学部サッカー部では東医体以外にもいろいろな大会に出場しましたが、一番の思い出は2年生の時の四大戦時の夜の宴会でしょう。四大戦とは、東京大学、横浜市立大学、群馬大学、そして東北大学の4つの医学部サッカー部の対抗戦で、毎年各大学が懇親会を含めた当番幹事を持ち回りで行っていました。

 その年は群馬大が主幹だったのですが、夜の懇親会の二次会か三次会、前橋の居酒屋で総勢30人くらいだったでしょうか。宴もたけなわで、どんちゃん騒ぎの中、群馬の面々が号令をかけ、一同が大きな円を描くように立ち並び、久保田早紀さんの「異邦人」を全員で合唱しました。それだけならよかったのですが、間奏に入ると群馬のメンバーたちがおもむろに服を脱ぎ始め、もちろんみんなに半強要しながら、すっかり出来上がっている面々はみんなで調子に乗ってマネをし、自分の靴下一足を真ん中の足にかぶせただけの姿で歌い踊るという、狂気のような宴会になりました。エッチなビデオでもみていれば靴下が床に落ちることはないのかもしれませんが、何しろ酩酊状態、たぶんみんな元気ありません。次々と靴下が床に落ちるわ落ちるわ。どうやら当時の群馬大伝統だったらしいのですが、もちろん他のお客さんもいましたけれどお構いなしに、今なら間違いなく、いや当時でも本当なら警察沙汰です。女子マネージャーはたぶんいなかったとは思いますが、主幹の群馬大については覚えていません。


 飲み会ではほかにもいろんなことがありました。噛みつく人を押さえたり、殴りあう人を止めたり、お店の出禁を食らったり。私の二日酔いは年中で、日中はいつもアパートで休息し夕方の練習に備え体力回復を試みていました。そのためか本業であるべき講義の記憶があまりありません。社会人なりたての時は医学の勉強不足がボディーブローのように効きました。前回ご紹介した、マサさんだけでなく、多くの患者さんに申し訳ない限りです。

 ただ、そういう若手医師が即戦力にならないと維持できない地方病院でもありました。夜間や休日の救急外来などは特にそうです。若手が支えないと成り立ちません。それは今も同じでしょう。


 全国各地に試合で遠征後は、多くの有志部員でレンタカーを借りて地域名産を飲み食いしながら帰ってきたりもしました。自分が出た東医体で優勝できなかったことは本当に悔しかったですが、やっぱり何もかもが思い出です。大学時代にサッカー部の一員として過ごせたことを今でも本当に感謝しています。

 

 ちなみに、わたしは今カンレキですが、同世代の群馬大サッカー部出身者とか、ほぼ全員が異邦人をやっているはずです。そして、異邦人が当時の群馬大サッカー部だけだったかどうかも未確認です。

 群馬大さんは放射線治療関連で多数の教授や有名病院の部長クラスを輩出されています。野球部が主軸のようですが、異邦人なさっていたのかなあ?

 

 ただですね、学生時代にそういうバカ騒ぎをしていた医者のほうが、実は良い医者だったりします。学問的な名医ではなく、臨床の名医であり、親身になる先生。真顔で口演とかしてるのを見ると、つい笑っちゃいますけどね。



 ということで、最後に、また私のアカペラカラオケタイムです。今日の曲は、「異邦人」しかないでしょう。間奏が終わった後の、あの靴下2番を歌います。すてきな歌声の久保田早紀さん、今は久米小百合さんとして音楽宣教師でご活躍だそうですね。


 本日もありがとうございました。



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 以上、希望の和だチャンネル、第3回目のがんコーディネートくりにっくラジオ配信(2024年9月12日PM10~)でお話した内容を、文字化いたしました。

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